実力主義のプロ野球界に入ろうとする選手なら、ドラフト指名順で比べられたり外れあつかいされることも想定の範囲内じゃないかと、私気になります

プロ野球のドラフト会議で、「外れ1位」という呼称が使われる件。ネットでは「選手たちに失礼」などと否定的な声もあがっている。別の呼称を考案すべきだとの指摘もあり、議論が紛糾しているという

ドラフトと言えば落合博満氏って1位指名じゃなかったのを、思い出した
まあ、社会人で指名された時点で球界的にはそれほど期待の星というわけではない、そんなふうに考えていた時期が私にもありました

1969年、県内の幾多の野球名門校から入学の勧誘を受けたが、卒業後は就職と決めていたことと、「選手をあまりいじらない」と聞いたことから、秋田県立秋田工業高等学校建築科に進学[6]。野球部へ入部すると即座にレギュラーに抜擢され4番となったが、入部3か月で右肩を壊して投手を断念し、外野手へ転向した[6]。しかし、もともと練習嫌いだったことや、上級生から毎日のように殴られるという体育会系の風習に嫌気し[7]、練習にはほとんど顔を出さなくなっていった。

しかし、チーム一の実力選手であっため、大会の直前にはチームへ呼び戻されていた[8]。こうした「練習さぼりー大会前の復帰」という「入退部」を8回繰り返した[6]。また、学校への通学にも嫌気してほとんど通わず、その代わり学校のある秋田市内の映画館へ、年100本は映画を鑑賞するほど通いつめた。このため、出席日数が足りず、高校3年間で2年ほどは留年の一歩手前だった[9]。

高校卒業後は就職と決めていたが、高校3年生の10月、人に勧められて東洋大学野球部のセレクションに参加し、そこで特大の本塁打を連発したことが評価されて合格[10]。1972年4月から東洋大学への進学が決定することになった。いきなり背番号を与えられ、ポジションも内野手と決定し、高校卒業前の2月には合宿入りした[10]。また、約20名の一年生の中から選抜された4名の中のメンバーに入って、野球部の松山キャンプにも参加した[10]。ところが、その練習中に左大腿部の肉離れと足首の捻挫という怪我を負い、毎日の通院を余儀なくされる[10]。

そして、高校時代に続いてまたも野球部の古い体質に直面する。先輩を立てるという風習や、学年が上というだけで先輩が後輩に威張り散らすことに対して「自分から自発的に野球をする意識が持てず、雑用を押し付けられて野球を嫌々やらされるだけ」と嫌気がさした[注 1][11]。こうして、4月の入学式を目前にして合宿を飛び出して野球部を退部し、大学も中退した[11]。

野球の才能はあったけど体育会系のノリが合わなくて遠回りしてただけなのかもしれんな
知らんけど

それはともかく、例えドラフトが外れ指名でも順位が低くてもその後の活躍次第では球界に名を残せるのがプロ野球の世界だから、外れカワイソスみたいなのは全員1位のゆとり運動会みたいなもんじゃね
(感じ方には個人差があります)

それに、甲子園優勝してドラフト1位指名されても大した成績残せず引退したり、数年で肩たたきにあう選手もいるみたいだし

中日は7日、遠藤一星外野手と井領雅貴外野手、武田健吾外野手、三ツ間卓也投手、ランディ・ロサリオ投手、育成の丸山泰資投手の6人に来季の契約を結ばないことを通告したと発表した。遠藤と井領が指名された2014年のドラフト組では、大量9人が支配下で入団するも、7年でチーム所属の選手はゼロになることに。残るは、今季途中にロッテに...

千里の馬は常に有れども伯楽は常には有らずなのか、私気になります
(個人の感想です)

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